#あたシモ

アメリカで働くレズの徒然

村上春樹『女のいない男たち』やっと読んだので感想書く

女のいない男たち

女のいない男たち

 

 

 

 

 
やっと読んだ。まず、まえがきが目に飛び込んできて、げんなりした。昔から、春樹が訳した小説についての薀蓄を、作品の前に挟み込まずにはいられないところが大嫌いだったのだ。この小説は、「刈り込んであって」だとか、「力のこもった作品」だとか、そんなもんは、文学研究をしてる人には興味深いことかもしれないないが、純粋に小説を読もうとしてる読者にとっては先入観でしかなく、むしろ邪魔だ。少なくともわたしはいちいち春樹の前口上を聞かされるのがうるさくてたまらない。まぁ、何を考えてるんだと思っていたら、自らの作品にも「まえがき」とはね。春樹は自己主張が強いだけかと思っていたが、心の底から、短編小説は薀蓄で「読者をあっためて」から読んでもらうのがよいと考えてたのか!←コンサートで前座が観客をあっためるみたいに!
 
まあ、いい。
まえがきで判断してはいけない。
読みはじめた。
 
何しろ、Wi-Fiの繋がらず、映画も有料チャンネルしかないユナイテッドの機内では、本を読むくらいしか娯楽がないのだ。
 
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さっそくドライブ・マイ・カーを読み出すと「女性ドライバー」の運転ぶりに対して、偏見を持つ主人公が登場。なんだかなぁ。それが政治的に正しくないことは十分に意識してエクスキューズもたっぷり書いているのだが、どっちにしろやっとまえがき終わったわーっつって、ページめくって収録一作目の一ページ目の一行目でこれが出てくるんだからね!
 
女性キャラクターはどの作品においても、年代、身長から体重、体つき、アザの有無、髪の毛、服装に至るまで微に入り細に入り描写される(「胸はかなり大きい方だ」「気取っていて、性格もあまり良くない。胸もほとんどない」 )
 
もちろん公平な目で見れば、春樹の作品は、女性だけでなく、男性キャラや車や紙の質感など、描写が細かく具体的なのが特徴ではある。しかし女性キャラとなると、いちいち性的魅力を絡んだ描写が入ってくるのだ。うんざりしますよ。←品定めしているお前はどないなんじゃい!!というと、「ひょっとしたらエムは僕の性器のかたちが美しいことを夫に教えたのかもしれない」(女のいない男たち)ときたもんだ。爆笑。まぁ、的外れのレズビアンやトランスキャラクターが出てこなかっただけでもよしとしよう。春樹を思わせる「谷村」という主人公が二作に出てきたのは興味深かった。
 
つくづく思うのは、春樹は、女心がわからないし、女とコミュニケーションできないし、女を自分が所属する「男」と異なる生き物として見てるのよねってこと。
 
「すべての女性には、嘘をつくための特別な独立器官のようなものが生まれつき具わっている」(独立器官) とかさ。
 
かといって女を見下しているという意識はなく、むしろ、何か男たちを狂わせ、破壊し、こてんぱんに空っぽにし、そして時には許し与え、癒す、不思議な力を持つ存在として見てる。ある意味女慣れしてないとゆーか「男子校出身者的メンタリティ」。逆にそういう、「自分に理解はできないが自分に力や空虚感を与える謎の存在」の象徴として(性的な対象としての)女や女の性欲が定義されてるのかもしれない。
 
誰もが、そういう「謎」でありながら、同時に圧倒的に影響されてしまう存在を持っている。それをある人は神といい、ある人は異性や恋愛対象だといい、またそれを宇宙や大自然に求める人もいるだろう。
 
そういう意味ではこの短編集は、<女>に仮託された、謎な存在、失われた存在をこれまでの作品でもおなじみのパターン(寝取られ、男友達の恋人、男友達の喪失、恋人の自殺……など)を使って表している、春樹の王道ものといえるかも。特に新しい!ってのは感じなかった。
 
と、こてんぱんに書きましたが、よかったのは「木野」。これはストーリーにおっと思わせる起伏がある。その分、女性客とのシーンが、(「女のいない男たち」のモチーフのために必要なのはわかるが)浮いてしまっている。長編にできるポテンシャルがある作品だと感じた。
 
あとは、表題作「女のいない男たち」も程よく象徴化された詩的な文体がよかった。