#あたシモ

アメリカで働くレズの徒然

無実と無罪の間

今更ながら超人気犯罪調査ポッドキャスト『シリアル』を聴いているわけだが、エピソード9まで来て思ったこと。

(以下、ネタバレ含まれます)

アドナンめちゃくちゃ怪しくない?

事前知識としてこのポッドキャスト自体がアドナン本人の協力を経て作られていることと、アドナンの友人であるもう一人の重要参考人ジェイが『シリアル』への出演を拒否し、ポッドキャストのなかでの自らの描かれ方に不満を抱いていたと知っていたため、『シリアル』は、「アドナン無罪説」に寄り添ってるのかと思っていたら、必ずしもそうではない。

『シリアル』の作成者達は、あくまで中立な立場で「真実」を求めているようだ。「アドナンが殺した。俺は埋めるのを手伝った」というジェイと「俺は無関係」というアドナン。このどちらかは必ず嘘つきなのだ。

そして、「人狼」をやったことがあるならわかるだろうが、一人でも「目的のために嘘を突き通すと決めている嘘つき」がゲームに紛れ込んでいる場合、「何が真実か」を見極めるのは途端に難しくなる。

シリアルを聴いていると、エピソードごとに、「これはジェイあやしいな」と思う回と、「んーこれはアドナン真っ黒だな」という回がある。もしかして、製作者はわざとそう編集しているのかもしれない。

問題は、これが司法の話でもあるため、「アドナンがやったかもしれない」と思っても、それが「合理的な疑いを超える証明」がなされていたか?という視点でも見なければいけないこと。無実と無罪の違いというやつである。個人的にアドナンはクロという心証を得ても、それが公判でキチンと証明できていなければ、アドナンが刑務所にいるのは不当ということになる。

遺留物のDNA検査などなされず、物的証拠がないなかで、一人の証言だけを元に有罪にしてよいのか?その証言は信用に足るものなのか?考えていくうち、捜査や裁判の公平性がいかに重要か、そして、それが難しいことか痛感する。

わたしたちは、皆、教科書に書いてある「疑わしきは罰せず」という原則を、本当に自分達の生きる社会に適用する勇気と覚悟があるだろうか?いざ、自分が裁判に参加するようになれば、震えあがって、いそいそと「疑わしきを罰して」しまうのではないか。

ポッドキャストを聴くという単純な関わりですら、すぐに、「アドナン怪しい」としまう自分にうんざりした。想像を膨らませて、「きっとこうに違いない!」と決めてしまうのは、とても楽である。しかし、与えられた情報のみを元に、どちらなのだろうかと迷い続けることは、実は非常な強さと知性を要求されるのだ。うう。