#あたシモ

アメリカで働くレズの徒然

「親友の日」がやっと終わった

昨日、Twitterを見てた人は#NationalBestFriendsDay というハッシュタグがトレンド入りしてたことに気づいたかもしれない。

「親友」って響きはずっと苦手だった。

photo by Adventures with my dogs

子供の頃から、友達が少なかったし、ましてや「親友」なんていう親密な関係は持っていなかった。気の合う友達や、好きな友達はいた。でも、そんな彼らを「親友」と定義することはなかった。できなかった。だって、相手からどう思われてるかわかんないじゃん。自分は親友だと思ってて、相手は、「別にーー」って、なんか悲しいじゃん。こーゆーのって、拒絶が怖くてアタックできないモテない人みたいだけど、わたしは本当に、恋人以外で友達と仲良くなるのは苦手だった。

親友じゃなくても。単なる友達もそうだったかもしれない。誰が自分の友達かどうか、よくわからなあった。恋愛でもそう。「つきあう」ことはできても、いわゆるラブラブカップルになったり、のろけたり……というのがわたしはどうも苦手だった。対人関係において、人とめちゃくちゃなかよくなれるという自信がなかったんだろうね。

小学生の頃、クラスで、仲のよい誰かに向けて手紙を書いて読み上げるというイベントがあった。一体仲のよい誰かって誰なんだ?考えた挙句、美人でそこそこ話す機会のあったTちゃんに書いた。わたし誰もわたしには手紙を書いてくれなかった。教師は「誰からも手紙を貰ってない人ー」と聞いて、その相手に返事を書くように言った。Tちゃんがわたしに書いた手紙をうつむいて読み上げている間、教室はうるさすぎて。わたしはTちゃんがなんて書いてくれたのか、ちっとも聞こえなかった。

中学時代になると「お昼は好きな者同士で食べましょう」ってゆールールなので、困った。一応、ご飯を一緒に食べてくれるグループはいたが、彼らのうちの誰一人として、友達だと思えなかったのだ。皆は仲よくて友達なんだろうけど、自分は違うって感じていた。ある日、なぜかは忘れたけど、お昼の時、一人で校内をブラブラしてた。そしたらいつもお昼を食べているグループのRちゃんたちが、廊下を走って、階段を駆け上がってるのが見えた。「……どうしたの?」大柄なRちゃんが全力で走ってるのが何かおかしくて聞くと、Rちゃんは大真面目に答えた。「お昼なのにいないから、探してたんだよ!」え?わたしのこと?すごくびっくりした。でも、嬉しかった。

高校に行っても、相変わらず人間関係は苦手なままだった。当時夏休みに、アメリカにホームステイをした。留学したがってたわたしを、二週間だけ行かせてくれたのだ。そこで、インドネシア人のグループと仲良くなったわたしは、ある日、そのうちの一人Dちゃんに聞かれた。

「ドゥーユーハブ、バス、フレン?」

ん?バス?乗り物のバス?何を言ってるのか、さっぱり分からず、何度も聞き返すうちに、わかった。「best friend」つまり、親友がいるか、と聞かれているのだ。汗。

とりあえず、オー、イェー!ベストフレンドー!と繰り返して時間を稼ぎながら、急いで考えた。わたしに親友はいるのか?と。一番仲良い友達……というか、一番好きな友達はいた。Iちゃんだ。でも、彼女のことを親友と言っていいのだろうか?Iちゃんにはもっと仲の良いMちゃんがいた。……わたしは、いるよ!と反射的に答えられない自分にコンプレックスも感じた。もし、これが、日本で、日本語で聞かれていたならもっと戸惑いを覚えていただろう。でも、そこは日本から遠く離れたアメリカで、相手はわたしの日常なんで知らないインドネシア人のDちゃんだ。いいだろう。わたしは頷いた。うん……いるよ。すると、彼女はたたみかけるように聞いてきた。彼女の名前は?……名前まで聞くの?わたしは目の前でニコニコしているDちゃんのことが憎らしく思えた。

「……Iちゃん」

あれから長い時間が経った今でもはっきり覚えているほど、ドキドキしながら答えたのに、Dちゃんは、ふーんと答えただけで、話題を変えてしまった。

それから何年も経って、人間関係についても、ずいぶん楽になった。決して得意になった訳ではない。それでも、自分の性質とか、できること、できないこと、自分の求める関係がわかってきたので、あまり思い悩んだりしなくなった。

ある人が「親友」かどうかなんて、どうでもいい。相手からどう思われてるかなんてのも、どうでもいい。その人の前にいる時に、どんな気持ちになるか。ありのままの自分でいられるか。相手のことが好きかどうか。自分にとって大事な友達を、キチンと大切にできているかどうか。そこだけ押さえとけばいいのだ。

……と言っても、昨日みたいに、「#親友の日」なんて言って大騒ぎするような風潮には、どこか居心地が悪くなり、かつての気まずい自分を思い出す。