#あたシモ

アメリカで働くレズの徒然

LGBTは確かに広い概念なのだけど、活動家は「LGBTすべて」の話を無理にしようとしなくてもいいのではないかな?という話

photo by Dai Lygad

LGBTという言葉、本当によく耳にするようになりましたね。レズビアン、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダーという様々な性指向や性自認の総称である「LGBT」ですが、実際には、この言葉が結構雑な使われ方も目にするようになりました。

LGBT=同性愛ではない

もうこれは、LGBTを文字通りに読んでもらえばわかると思うんだけど、LGBTは同性愛以外の概念も含んだ言葉なので、同性愛とLGBTはイコールではありません。よく「LGBT」と見出しにありながら、中身は同性愛だけ(それもゲイ男性だけとか)しか取り上げてない記事ってあるけど、「LGBT」と掲げていながら「G」だけとか「L」だけしか取り上げてないっていうのはホントどうかと思います。

LGBTセクシャルマイノリティーではない。

じゃあ、同性愛より広い意味の「セクシャルマイノリティー」ならよいのかというと、これもまたLGBTと同じ意味ではありません。だから、LGBTセクシャルマイノリティーを交換可能な言葉のように扱うと、おかしなことになります。

例えば「わたしはセクシャルマイノリティーです」ということはできるけど、「わたしはLGBTです」とは言わないと思う。だって、わたしはレズビアンであって、ゲイ男性ではないし、バイセクシャルでもないし、トランスジェンダーでもないからだ。LGBTコミュニティーとか、LGBTへの理解が……とか、様々なことの総称としてLGBTを使うのはよいんだけど、「一人の人間がLGBTです」というのは、何か変。

また、LGBT以外のセクシャルマイノリティーも一杯存在します。LGBTQとか、LGBTQI……とかいろいろな属性を付け足して表現しようという動きもありますが、結局性の多様性には、様々なベクトルがあり、「LGBT」では救い取れないのです。LGBTという概念自体、既に複数のベクトルを含んでるしね。

最近のLGBT活動家っぽい人のなかには、このようなセクシャルマイノリティーのなかでの多様性を意識してか「ゲイ男性以外」「同性愛以外」の話も含めながら「LGBTとしての悩み」「LGBTとしての生きづらさ」を語ろうとしているように思えます。

逆にLGBTの強みにしても「購買力が高い」「トレンドに敏感」など、ものすごく雑なまとめ方。

しかし、わたしはそのようにLGBTが「まとめて」語られることに、かなりの違和感を覚えます。

悩みも強みも人それぞれ

人の悩みや苦悩には、セクシャルマイノリティーであることの他に、性別、家庭環境、地域性、人種、民族、宗教、障がいの有無、収入のあるなしなど、いろいろな要素が絡みあっています。

同じセクシャリティーを持ってるとしても、違うんです。まして、例えば、地方の裕福な家庭で育ったレズビアンの女の子と、都内の下町でシングルマザーの子供として育てられたトランスジェンダーの男の子では悩みは同じと言えるでしょうか?もしもその子が外国籍だったら?もしも、身体に障がいがあったら?つながりはあるとは思いますが、丁寧に見ていくと一人ひとり違う悩みを「LGBTの悩み」としてくくるのは、かなり乱暴です。

強みもそうです。人の強みは性指向や性自認によってのみ決まるわけではないのですから、「LGBTにはこんな強みがある」ってまとめるのは無理がありますよね。

LGBT活動家だって、LGBT全てのことがわかるわけではない

LGBTという大きな風呂敷を広げて話す以上、「いろいろなものをカバーしよう!」と思うのはよいことだと思います。

しかし、LGBTや、セクシャルマイノリティーには、意外と共通するものって少ないし、コミュニティーを代弁しているかのように見える活動家も、LGBT全てのことがわかってるわけではありません。わたしは、それでもいいと思うし「LGBTまとめてこうです」と無理やり全部をまとめて語らなくてもいいと思うんですね。

レズビアンの自分はこういう経験をして、こう思う。でも、その経験はあくまで自分のものだから、レズビアン全体のものではないし、ましてや、LGBT全てのことはわからないのだと言ってもよいと思うのですね。

貧困率にしろ、自殺率にしろ。雑にまとめて話すよりも、わかることだけを丁寧に話していけばよいのじゃないかなぁ。

「わからない」からこそ学ぶきっかけに!

ここで気をつけなければいけないのが「自分ははXXではないから、XXのことはわからない」という宣言が、「XXには興味がないから、自分はかかわらない。XX当事者が頑張って」というような、他のマイノリティーへの切り捨てにつながりかねないこと。

「知らない」「わからない」ことを認めることは、ダブルマイノリティーへの無関心や排除の正当化に使うのではなく、他者の声に耳を傾け、謙虚に学んでいくためのきっかけとしたいものです。