#あたシモ

アメリカで働くレズの徒然

「死にたい」と「殺されたい」の本当の意味

こんなツイートがバズってるのを見た。

そのとおりだな。と思った。

わたしは幼稚園くらいの時からずぅーっと、生きることがしんどいと思い続けてた。それは、「みんなとうまく仲良くなれない」から。決して人見知りとかではないし、仲良くなろうとするんだけど、取っ組み合いの喧嘩とかする。そんで幼稚園も問題起こして転園?してる。小学校の通知表とか見返すと「人の身体や持ち物に気安くに触ってトラブルになってしまう」とか毎年のように書かれている。中学の時は誰かのことを、皆がそう呼んでいるように真似して苗字呼び捨てで呼んだら何コイツとか言って嫌われた。自分のセクシャリティとか性格がどう関係しているのかはわからない。でも人間関係にまつわる「生きづらさ」はず〜っとあった。今、この瞬間も。

わたしの頭の中で常に低く鳴り響いてるのは「死にたい」というか「消えたい」。なんか、色々全てが面倒で、気を使えないのに気を使おうとするのも疲れて、理由がわからないのに嫌われたり怒られるのも辛いし。こんな気苦労が死ぬまで続くのは、嫌、だから、もういっそのこと楽になりたかったんだと思う。

あともうひとつ昔ずっとあったのが、「殺してほしい」っていうもの。自分一人じゃ死ねないから、殺してほしいって思ってた。しかも、好きな子に。甘えてるよな。当時わたしはまだ完全に自分のセクシュアリティに目覚めていたわけじゃなくて、むしろそれが分からなくて苦しんでいた。誰かともっと濃く深く親密な関係を築きたいのに、それが何なのか、わからなくて。自分の欲しいものがわからなったけど、大抵いつも、わたしが望むほどの強い関係性が手に入ることはなかった。だから、わたしはいつも「不満な妻」みたいな感じで、その女友達たちに醜い執着をした。答えのない相談をふっかけたり、やたら議論してみたり、長い長い手紙を送りつけたり。挙げ句の果てに「殺してほしい」と夢想すらした。さすがに本人には言ってないが。でも、相当ヤバいやつ。

冒頭のツイートと同じように解釈してみると、おそらく、わたしの「殺してほしい」は、「相手と深い関係になりたい」ってことだったんだと思う。相手から好かれたいし、本当はもっと普通に仲良くなりたい……なのに、ちゃんとした方向性で親密さを求めることができなくて、完全に拗らせてた。一言で言うなら「コミュ障」でも、シャイとか無口なタイプなコミュ障ではなく、勢いよく変な方向へ積極的なコミュ障であった。

あの頃、側にいてくれた皆様には、本当に多大なるご迷惑おかけしました。お恥ずかしい。

あれから長い年月が経ち、今、大人になった自分が、もし、少しなりとも、一見普通の生活ができているとしたら、それは日記を書き始めたからだと思う。文章にすることで、少し客観的なものの見方ができるようになった。ブログもそのひとつ。

そして、わたしの人生は多分少しだけ楽になり、好きな人と深く関わることもできるようになった。「消えたい」とか、「殺してほしい」とか思うことは少なくなった。でも、そう思ってた頃も、本当は「死ぬ」こと自体を望んでたわけではないんだよね。もし本当に死んじゃったとしても、それはたまたまだったんだよね。