#あたシモ

アメリカで働くレズの徒然

アーライでいいんだと思えたら、楽になれた話

日系アメリカ人たちのクィアのイベントがあったので参加した。

 
前にも書いたが、他のアジア系のイベントはかなりあるなか、日系の団体はなかったので、おお!いいね!って感じだったのだが、何かどーも、どーゆースタンスでその場にいるべきなのかよくわからなくなってしまう時がある。それについて改めて考えさせられた。
 
日系アメリカ人(JA)は、当然なんだけど、日系アメリカ人であって、日本で生まれ育った日本人(JJ)とは違う。JAとしての経験を皆が共有し、JAアイデンティティーが強調されるのその場で、Japaneseだけど、JAではない私は居場所がないと感じることがあるし、それは「単に白人男性中心だから」とか、「他のアジア人中心だから」と言った居心地の悪さとはまた別の……「Japaese」であることを共有していると思ってたはずなのに、そうじゃなかった……という居心地の悪さだった。
 
まず、私は、日系アメリカ人の歴史や彼らの経験を知らなさすぎる。アメリカで、日系人といえば、長く差別の対象であり、第二次世界大戦中には、強制収容されるなどの経験を得てきた。これは、日本ではしっかり習った記憶がないが、アメリカでは、「奴隷制」と「ナチス」に並んで、がっちり教えられ、皆の常識として歴史の三大反省ポイントというか、大きな過ちであったという意識が共有されている。それだけでなく、人種的にマイノリティーとして育ったり、バイカルチャーで育つ故の困難やアイデンティティーの問題など、私は、JAの人々にとって、典型的と言える問題をあまり共有できていないのだ。
 
私の生きるうえでの困難は、女性で、アジア人で、クィアであること、他にもいろいろあるが、「日系人であること」よりも、「移民」であることにもかなり大きく由来している。
 
語学やビザの面で感じる不都合はもちろん、警察への対応の仕方や社会運動に参加するにしても、「市民でない」「英語がよくわからない」「アメリカの仕組みがよくわかっていない」などの要素によって、やりたいことができないことがあるし、不都合にも苦しめられている。移民は、アメリカの学歴がなかったり、収入が低いなどのケースもある。そこで、仲間同士で助け合うわけなんだけど、そこでは、完全に日本人同士で助け合うのはもちろん、日系を超えて、新移民同士助け合うということがある。移民弁護士の情報や、保険の情報…安い中古家具や中古車、それに、安いタクシーサービスやちょっとグレーなサービスまで、お互い下手な英語を辛抱強く聞き取りあい、助け合ってきたのは、いつも移民の仲間だったのだった。
 
もちろん、カリフォルニアにはアジア系の移民が多くて、これまで彼らが頑張ってアジア系のビジビリティをあげてきてくれたので、今、私はその恩恵を一身に受けてるんだけども。
 
じゃあ、何か自分もコミュニティにギブバックしなきゃねってんで、日系アメリカ人の会とか行ってみるわけだ。しかし、アメリカ人化が進んでいるだけでなく、メインストリームでの成功を収めている人が多く関わっている「日系アメリカ人」の集まりに足を踏み入れた時、私はその集団が、アウェーすぎて、圧倒されてしまった。うっ、私なんかがここにいて、いいのかな。って。皆、日本のラストネームを持ってるのに、見た目は色々だし、英語ペラペラで頭よさそうだし、面白いことを言えずお金もない私なんかがここにいても何もいいことないってゆーか、自分は何に日本で生まれ育ったJJにすぎなくて、JAのためにできることなんて、あんまりないのかなって。
 
 
でも、多くの日系アメリカ人は、JJの親から産まれている。日本とのつながりや、日本文化との関わりレベルは違うけど、それでもJJとJAはどこかつながってるはずだし、自分は自分の方法で、JAに関われればいいなーとずっと思ってて。それはなんだろー?日本語の現地メディアでの広報の手伝い?字幕?通訳?ブログに書く?とかいろいろ考えてた。いや、でも、そもそもJAの団体なんで、英語だけでいい感じにやれてるし、むしろ英語わからない人来たら困るんだから、日本語のパブリシティとか、案内なんていらんだろ、とか。日本国内の状況も、別にJAの糧になるかわかんないし、ってか、そもそも彼らはアメリカ人だし、私が何かできるとかでしゃばること自体間違ってるのかな、とか。やっぱりJAの人たちを影から応援してるくらいでいいのだろうなーとか。でも、それだと、やっぱり社会運動の場面で、自分の場所とかないわけで、寂しいとか、いろいろあるわけですよ。←日本人皆すぐ日本に帰っちゃうしね。
 
で、ワークショップで、最後「アーライ」と「LGBTQ自認」とを分けてトークしたんだよね。当事者だけの安全な環境ということで。そして、私は、当然のごとくLGBTQ自認に参加してたわけだが、ふと閃いたんですよ。
 
 
あ、私は、今、ここ、「アーライとしている」と考えたらいいのかなって。セクシャリティの面では、ストレートに当事者だけど、JAアイデンティティーにおいては、自分はアーライとして考えればいいんだと。
 
もちろん、アーライだから当事者でなくなるわけではない。それでも自分のことではあるし、だからそこにいるし、自分のリソースも引き続き使っていきたいんだけど、自分は「アーライ」という概念を自分にあてはめることを思いついた時点で、すごく心が楽になった。
 
……長くなったので、一旦投稿する。