先日Twitterで書いたことなのだが、ブログにもまとめておく。
きっかけは、最近米国で急速に広まっているアジア系に対する差別事件と、それに対抗する活動としての「#StopAsianHate」というようなムーブメントが、アジア在住のアジア人(e.g.日本在住の日本人)の間ではさほど盛り上がっていないのは、なぜか?というような切り口の会話を某メディアで見かけたことだった。
以前から、北米在住者や意識高い系の中で、同様の問題提起がされるのを、別の機会に何度か耳にしていた。
①「日本人はホワイトウォッシング/文化の盗用に鈍感」という指摘 ②「それはなぜなのか(やれやれ)」めいた問題設定
まず、わたしは、①の認識については同意している。自分の観測範囲でも、ハリウッドで文化の盗用や表象が問題となって、監督や役者が日本のファンの間では、ファンによる擁護が目立ち、結果として文化の盗用やホワイトウォッシング、マイノリティ表象などの問題提起がディスミスされる状態になりがちな点が気になっていた。
しかし、そこで「②なんで日本人は鈍いんだろうね」みたいな疑問に対しては違和感というか、これはこれで、また北米中心主義的だと感じていた。アジアに住んでいるアジア人は、人種的には多数派なのだから、北米における人種的マイノリティの活動である#StopAsianHateやステロタイプに基づくマイクロアグレッションなどについての問題に対して、すぐ「ピンと来ない」のはある意味当然だからである。逆に、すぐにアメリカの文脈を理解できるかのような立場の方が怪しいと思う。Black Lives MatterやStopAsianHateも、ソーシャルメディアのアイコンやハッシュタグを超えた歴史と文脈がある問題なのであり、それらを把握して学ぶのに、一定の時間がかかるのは不思議ではない。日本には、日本の人種・民族差別があり、またそれに対して対抗している活動も存在する。外国人研修生の待遇の問題や、入管における問題、民族学校への差別などなど。
日本に住む日本人が、BLMやStopAsianHateに対して、「北米の文脈」に沿った「アメリカ人にわかりやすい」形で連帯を表明するとしても、それが足元で自分が生きている社会に対しての運動(すなわち日本社会において日本人が抑圧者である差別)とつながっていなければ、結局はムーブメントをファッション的に消費しているだけってことになっちゃうと思う。
自分が多数派な点について「反応鈍」くなるのは、日本在住者には限らない。北米で「Black Lives Matter」「StopAsianHate」を唱え、「日本在住者の鈍さ」を嘆いているような人でも、自分が多数派となる側面では、(人種差別における「白人」と同様の)特権的な立場にいることを忘れがちなケースもある。例えば、異性愛者かどうか、トランスジェンダーに対してのシスジェンダー、ディスアビリティーの有無など。これはわたし自身が繰り返し指摘や批判を受けて、そのたびに自戒していることでもある。
どこに住んでいようが、自分の属性がなんであろうが、「自分が多数派」である問題については、ピンと来ないのが、当然なのだと思う。それで開き直って何もしなくていいと言ってるわけではないよ!自分が多数派となっている問題につき、実際に行動を起こしている人はたくさんいるし、日本にもいる。それを私は知ってる。だからそれに対して「一体日本人はなぜこの問題について鈍いんだろうね(やれやれ)」なんて、あたかも日本在住者の社会への意識が低いかのような言い方はしたくない。
で、リアルに今アメリカで生きている「アジア系女性」として感じる差別は何なの?とか恐怖感とか、それに対してわたしを含めみんながどうやって対抗しているか……みたいな話はまた別エントリで書こうと思う。