こんなメンションが送られてきた。
イチカワユウ(@yu_ichikawa)編、その1:
レズビアンの自己規定は“決めつけ”なのか?~「関西クィア映画祭2014」シンパからの反応(4)
http://t.co/VBcnbPha6Q
http://t.co/IkmkO6YQeC @kqff_official
— 百合魔王オッシー (@herfinalchapter) November 10, 2014
イチカワユウ(@yu_ichikawa)編、その2:
《人を愛さない権利》と「レズビアン」を“語る”ことの困難
http://t.co/0XOCN2XJtz
http://t.co/IkmkO6YQeC @kqff_official
— 百合魔王オッシー (@herfinalchapter) November 10, 2014
オッシーの本丸である「クィア映画祭への批判」とは、ちょっとズレると思うが、名指しで、あまりに的外れなことを書かれたので、一応明らかに違うよーというところだけ書いておく。
まず前提として、そもそもオッシーの書いたクィア映画祭への批判↓は、私は正当だと考えている。
《私たちの周りにあふれる枠。「世の中には男と女しかいない」「男は性欲をコントロールできない」「わたしはレズビアンだ」「性を売るなんてよくない」「愛する人は1人にしぼるべきだ」など、人それぞれの枠にも、多様性があります。》
なぜ「わたしはレズビアンだ」ということが「世の中には男と女しかいない」「男は性欲をコントロールできない」「性を売るなんてよくない」「愛する人は1人にしぼるべきだ」などの明確な性差別思想と同列に置かれているのでしょうか?
これを読んで、「確かにおかしい」と思ったし、レズビアンについての文言はウェブサイトから削除されるべきだと考えた。その後、映画祭関係者からは「レズビアンを名乗る人々に対して批判をする意図がない」的なコメントが出ていたようだが*1、そういうことではないでしょうとも思った。
確かに、「わたしはレズビアンだ」だけ浮いてる…自分で自分のセクを決めつけてしまうことが枠になるという意味はわからなくもないけど、確かに他の例示とは質が違うよね。【拡散希望】「関西クィア映画祭2014」への公開質問状(1 - 百錬ノ鐵 http://t.co/XEPIgPA8a5
— イチカワユウ (@yu_ichikawa) October 15, 2014
そこで、上のようにツイートしたのが補足されたようだ。「クィア主義者」とか「シンパ」とか、納得いかない部分はあるが、まあ別に何と思われようとここの部分はいい。ただ、今回は彼がその後、批判として文字数を費やしている、
はたしてレズビアン当事者が「レズビアン」という自己の性的アイデンティを自認・表明することは《自分で自分のセクを決めつけてしまうこと》になるだろうか?
という問題設定に対して、心底呆れたので、そこを中心に反論する。
オッシーは今回の記事で繰り返し、以下の様なことを書いている。
〈女性〉のジェンダー・アイデンティティに基づいて〈女性〉を愛する「レズビアン」は、まさしくイチカワの言に倣うなら《自分で自分のセクを決めつけてしまう》人々ということになる。
私はレズビアン当事者が「レズビアン」というアイデンティティを自認したり、表明したりすることを否定なんかしないし、したこともない。
むしろ(レズビアンの場合に限らず)、アイデンティティ語が重要な意味を持つ場面があると思っている。
それはただ思ったり、考えたりしているだけというより、自分がこれまで生きぬいてきた人生の中で、不愉快な思いもしながら学びとってきた、血の出るような自分なりの真実であり、「レズビアンが自分をレズビアンであると表明するのは、『決めつけ』である」なんて誰かにヒョーロンカ面で言われたら、まあはっきりいって、誰よりも怒るよ、私は。
《自分のセクを決めつけてしまうことが枠になる》というイチカワの言辞は、むしろ「枠」に無自覚な“意識の低い”レズビアン当事者を想定したものだ。
これも、全然違う。
私が「自分のセクを決めつけてしまう」時があり、それが「枠になる」という時に想定していたのは、「レズビアンなのに、男の娘にトキメく自分何なんだw」という自分であり、主にはむしろ、この強制異性愛社会で育ち「生まれた時から自動的にノンケだと思わされている人々」のことでもあり、そうやって自分のことをノンケだと「決めつけて」しまっていた過去の自分のことでもあった。
恐れと否定と不安と混乱の果てにようやく「自分はレズビアンだ」という自覚に辿り着いた誰かに対して、外から、その人のことをろくにわかりもしないのに「それは決めつけだ」なんて言うわけない。それがどんなに暴力的であるかを理解しているんだから。
また、もっとも怒りを覚えたのは以下の部分。
とりわけイチカワのように、言葉の使い方に無神経な者が「レズビアン」のセクシュアリティを言い表すなら、それ自体が「ヘイトスピーチ」として機能するという悪循環に陥る。
確かに、私は言葉の選び方や使い方に無神経なところがあるかもしれない。それは批判されることがあり、反省している。
しかし、「ヘイトスピーチ」?この人は、ヘイトスピートを、一体何だと考えているのか。オッシーのように、たったひとつのツイートを見て(私の他のツイートやブログをろくに読んでいないことは明らか)、レズビアンのセクシャリティに対して「ヘイトスピーチ」をしている、などと主張するのならば、そっちの方がよほどいろんな意味で無神経なのではないか。
「レズビアン」であることの困難っていうのには、レズビアンにつきまとう性的イメージだとか、レズビアンを肯定する語彙がないだとか、レズビアンは「女性」としても抑圧されてるとか、レズビアンのセクシャリティは、あんまりまともに扱われず「決めつけ」だとか「成長過程」とか「モテないから」とか「いい男を知らないだけ」「綺麗な娘二人なら許す」とか軽視されがち、とかそういうのはもちろんだけけれども、自分たちの言葉で語っても語っても語っても語っても、書いても書いても書いても書いても、きちんと読まれない苦労っていうのもあるなーと。今回改めて実感した。
ついでに、補足。
イチカワユウのコメントは、奇しくもちょうど今、ネット上で物議を醸し出している次の言説とリンクしている。
として、武井壮の3つのツイートが紹介されているが、私はハラスメントについて、これらのツイート群には全く同意できない。
ハラスメントって言葉やめねえか?大好きな人にされたら許せて、嫌いな人にされたら怒る行為はハラスメントじゃねえと思うんだわ。。それはただの人の好き嫌い。。ハラスメントハラスメント騒いで人を罰することばっか考えてねえで人と人の輪を温かく築こうや、それが人間の素敵な優しさや愛だよな。。
— 武井壮 (@sosotakei) October 29, 2014
ハラスメント無くそう、無くなる人間関係を築こう、なんてのは、理想論だってのは分かってんだわ。。だけどよ、職場だろうがなんだろうが、素敵な人間の優しさとか愛がなくちゃつまらねえだろ。。難しいけど目指さなきゃ辿り着かねえからよ。。苦しんでる人いたらすまん、オレ頑張るから許してや。。。
— 武井壮 (@sosotakei) October 29, 2014
ハラスメントなんて単語使って罰則作って嫌悪感高めるのも解決策だと思うけど。。いじめも、暴力問題も、ハラスメントも愛のある言葉だったりそれで築いた人間関係で変わると思うんだわ。。日本語ってそういう素敵なものだ。。愛の表現がこんなに多様な言葉他にねえ。。日本人の底力見せてやろうぜ。。
— 武井壮 (@sosotakei) October 29, 2014
ハラスメント論については長くなるので、ここでは書かないが、まったくどこをどう読んだら「リンクしている」と思えるんだか。謎です。