少し昔に書いてたブログなので、ちょっと日時がズレているがアップする。
セレブの自殺に揺れた1週間だった。
カラフルで、気分まで明るくなるようなデザインで人気だったケイト・スペード。そして、セレブシェフの草分けで、世界中を旅しながら現地の美味しいものを食べてリポートすると言う「夢の仕事」をしていた、アンソニー・ボーデイン。
みんなが「なぜ?」と二人の自殺について語り合っている時に、ロサンゼルスに住む一人のクィアな女の子も、ひっそりと自らの命を絶っていた。
ロサンゼルスプライドの真っ最中に、そのニュースは飛び込んできた。
わたしは、亡くなった彼女(Aちゃん)と、そんなに仲がよかったわけではなかった。共通のL友達のパーティーで会うくらいだった。二人は、高校の友達だかで、もう長いこと知り合いだ。Aちゃんは、うるさいほど明るくて、会うといつでも、楽しくて……爆笑が止まらなかった。わたしと彼女のFちゃんは、どちらかというと彼らのパーティーでは知り合いが少なくて、シャイになりがちなタイプなのだけど、そんな時でも「ここ座んなよー!調子どうよー?」と椅子をずらして場所を作って、うちらを仲間に入れてくれる、優しさがあった。
最後に会った時も、相変わらず面白くて、うるさいほど明るかった。でも、その時、一つだけAちゃんの近況には変わったことがあった。それは10年つきあってて多分結婚もしてた奥さんと別れたことだった。長いことつきあってたのに、どうしたんだろ?と思ったけど、「あたし、ちょっと、バイ入ってるからさ。他の人ともエッチしてみたくなったりとか、あるわけよ。で、オープンリレーションシップにしようとしたけどうまくいかなくて」みたいな感じで、あけすけに話しているAちゃんを見たら、よくあるポリアモリーしようとして失敗したカップルなのかな?とか思えた。
そんなの、うちらだって、なるかもしんないよね。とか、思いながら、話聞いてた。
それに、Aちゃんはちょっとさみしそうだけど、まさか、そんなに落ち込んでるとは思わなかった。
でも、それから、たったの数ヶ月で、Aちゃんは、いなくなった。遊ぼうねって、話したから、カラオケも誘ったのに、来なくてさ。どうしたんだろって思ってた、矢先のことだった。
その後、Aちゃんのルームメイトや、友達の投稿で、彼女がずっと鬱に苦しんでいたことや、周りが病院に連れて行こうとしてたことを知った。
わたし、Aちゃんのことなんて、何も知らなかったんだ。そこまで、仲良くなかったのだから仕方ないんだけど、言いようのない無力感と寂しさが押し寄せてきた。友達と飲みに行ったり、遊ぶことすらなんだか面倒になってしまった。
彼女の死で、なぜこんなに傷ついたんだろう。それは、彼女が好きだから生きてて欲しかったというのもあるけど、本当は元気だと勝手に思い込んでた彼女に、元気でいて欲しかった、という、多分わたしの自己中心的な願いだと思う。
わたしは10代の時、割と鬱だった。そして、当時仲良しだった友達が自殺してしまった。もう大昔の話だ。でも、それから、今まで、ずーっと自分がそれを止められなかったことや、自分だけ生き延びていることが申し訳ないと言う気持ちが残っている。
わたしは、ちょうど当時セクシャリティのことで悩んでいた。それから色々あり、結局、わたしはセクシャリティに気づいて、コミュニティにデビューして、自分のセクシャリティを受け入れた。そして、それなりに幸せに、今日まで生きてこれた。でも、わたしは、死んでしまった彼に、自分のセクシャリティのことを言う機会がなかった。あの頃、毎日つるんで、あの子しか友達いないくらいに、仲良かったはずなのに。
わたしは彼に言えなかったし、彼もわたしに言わないで死んでしまった。人が何を抱えているのか、外からでは本当になんにもわかんない。
自分の認識している世界が、「そう」じゃなかった時、確かなものなど何もない、と実感して不安になるから。だから、そんな自分の不安を打ち消すために、人は、他人に対して、明日も今日と同じように生きててほしいと願う。
自殺は、日常の連続性を打ち砕くから。
明日が、今日のつながりで、なんとなく過ごせる、そんなふうに思ってたヌルい日常が終わる。
自殺は、一見幸せそうに見える日常の「実はそうじゃない」可能性を暴く。
愛想笑いの奥にある孤独をむき出しにする。
だからわたしは自殺を恐れる。
死なないで。
と。
でもそれって、心の底から「あなたの生」を祈っていると言うのと同じくらい、「自分の平穏な心」を保ちたいと言うエゴイズムのあらわれでもあるのかな、とか、思った。