前回アラスカを舞台にした『ザ・グレイ』について書いたが、最近観たアラスカが出てくるもう一つの作品。それは『イントゥ・ザ・ワイルド(Into the wild)』だ。『荒野へ』というタイトルで邦訳もされているルポタージュを元にした映画だ。
この映画の主人公、クリス・マッキャンドレスのことを知ったのは、去年のことだった。ヨセミテ国立公園に行った後、そのあまりに広大な自然に圧倒されたということをClaireにいうと「自然は甘くない。人は死ぬんだから」という感じで、クリスのことを教えられたのだ。
クリスが有名になったのはその「死」によってだった。アラスカで餓死しているところを発見され、それで有名になったのだ。彼は「野生の生活がしたい」とアラスカに来たものの、食料や装備の準備が足らず、誤って毒のある植物を口にして衰弱して亡くなったのだという。
「何それ、馬鹿すぎるw」
「自然を舐めたらいけないね」
「大自然に憧れる都会っ子」であるわたしは内心ドキっとしながらも、クリスについてオンラインで読めた記事を流し読みして、基本的に「準備なしに自然に入ると痛い目にある」という教訓を汲み取るのみであった。
といっても気になるところはあった。
クリスは、裕福な実業家の家庭に生まれ、大学を優秀な成績で卒業した後、「大学院の学費のため」として銀行口座に残されていた24,000ドルをすべて慈善団体に寄付し、あてのない旅にでる。車を捨てる時は、持ち合わせの現金を燃やしている。身分証明書も捨てている。とにかく「物質的なもの」や既存の社会システムに徹底して背を向けているのだ。「恵まれた世間知らずのお坊ちゃんの気まぐれ」といえばそうなのだが、その純粋さに、何か興味を覚えた。わたしにもそういう世間知らずな甘えた気持ちがあるからかもしれない。どちらにしろ、Claireと会話をしてからしばらく、クリスのことは忘れていた。
そんな時、旅行で訪れたオリンピアのタイニーハウスに、ジョン・クラカワーによるこの本がおいてあった。オリンピアに行く途中で立ち寄ったシアトルの空港でも思ったことだが、ワシントン州はアラスカへの玄関口みたいなところがあり、アラスカン空港の路線が多く入っているし、なんとなく街のなかでも「アラスカ」を意識することが多い。タイニーハウスのホストであるブリタニーも、タイニーハウスを建てようと思い立つ前は、夏はアラスカ、冬はチリで働く渡り鳥的な季節労働者だったそうだ。
「おっ!これ、前聞いたアラスカで亡くなった人の話じゃん!」と思って開いたら、予想以上に面白く、グイグイ引きこまれてしまった。残念ながら滞在中に読みきることはできなかったのだが、映画化されているというのを知り、早速帰宅後鑑賞。
本作は『ミルク』のショーン・ペンが監督している。脚本も彼だが、基本的には、本を素直に映画にしたような。ちなみに、本作主演のエミール・ハーシュも『ミルク』に出ている役者。
テロップや、編集の感じがインディーっぽくて一見低予算っぽいが、そこそこ有名な俳優が出ていたり、アカデミー賞に二部門もノミネートされてるとは意外だった。←ちなみに、映画評価サイト「ロッテントマト」でも高評価!
家族にも友達にも行き先を告げずに消えたクリスは、「アレックス」と名前を変え、アメリカ中を彷徨うあてのない旅をしていた。旅先で様々な人々と出会い、交流しながら「アラスカ」を目指す彼。自分のことを三人称で描きながら日記をつけ、カメラも最後まで持ち続けるなど、「世間」を捨てたようで、そうでもない。おそらく旅が終わったら自分の体験を元に本を書こうとしていたのだろう。そんなところもちょっとナルシストで、人によっては好き嫌いが分かれそうだ。
映画のなかではクリステン・スチュワート(Kristen Stewart)演じる少女との淡い恋や、周りの人々との交流を通じて、クリスの人間性やについても描かれている。なぜクリスが家によりつかず、旅にでるようになったのか?理由は「親との関係」とされている。「不倫」から始まり、もともと不倫の関係の間に生まれたクリスと妹。経済的には裕福ながら、不仲な両親の間で育ったことで、苦しみ孤独を深めていったことが描写されている。両親はこの映画を観てどのように感じるんだろうか?
しかし、「究極の自由」を求めて、一人でヒッチハイクの旅に出るクリスの気持ちは痛いほどわかる。わたしもそういう旅はめちゃくちゃ好きで、昔は一人でヒッチハイクしたり、山に行ったりしたのだ。でも、今はもうしない。というかできない。学生時代のある日、長野県の森を一人で歩いていて、ふと恐怖体験をし、それから一人で森や山に行けなくなった。そして体験談を大学の「ジェンダー関係」のゼミで話したら「あなたは男というレッテルで人を決めつけている。男性差別者だ!」とか低い声の男に恫喝され、もう何も言えなくなった。
ま、そんなことはどうでもいいんだ。クリスの「自由な旅」を観てて、ぶっちゃけ嫉妬した。いいよねえ。メキシコの国境を身分証明書なしで超えても、何の問題もなく戻ってこれて。ビザの問題を心配しないですんで。国境警備隊に殺されたりしないですんで。一人でヒッチハイクしても、レイプされたり、誘拐される心配をせずにすんで!持病もなく五体満足。好きなことをできる。「旅に出ろ」とクリスに言われる老人は、いったいどんな気持ちだっただろうか?クリスに悪意はないし、老人もクリスを好きだったわけだが、老い先短く体も不自由そうな老人に、そういうことを言い放てるクリスは自由で、そして残酷だと思った。日本で観ていたらもっと純粋に「クリスの自由さが素敵ー」と思えたかもしれないが、今の自分には無理。彼の自由奔放さが強調されればされるほど、彼がいかに恵まれていたか、そしてそのことに彼自身も、今彼を崇めるわたしたちの多くも、いかに無自覚であったか、を意識せざるを得ない。
……。
社会から逃げるためにアラスカまで来たクリスだったが、バスに住みつき、「社会」の残滓にすがって生きる。野生で生きたいという割には、狩りで捕まえた獲物の処理方法とか、食べられる植物の知識とかがなさすぎる!もう!クリス!ダサい!ダサすぎるよ!!クリスの馬鹿!だけど、何か人事とは思えないのだ。
どんどんやせ細っていきながらも日記をつけるクリス。
「自分の人生は幸せだった」
「幸せは、誰かと共有した時にこそ本物だ」
ときおり挿入されるクリスの言葉は、「あああああああ」とジタバタしたくなるほど青臭いけれども、なぜか胸を打たれる真実みがある。
本が出版されて以来、クリスは大変な人気者になり、多くの人がクリスに興味を持った。映画を撮ったショーン・ペンもその一人なのだろう。しかし、そのクリス人気に対して苦々しく思う人間もいるようで「単に馬鹿で自己中心的な旅行者で、冒険上手だったわけでもないなのに、文章の力であたかも聖人かのように仕立てあげられた」とする意見もある。いったい彼はどちらなのか?それは受け取る人によって違うだろう。
ちなみに、Fionaは「クリス馬鹿。まったく理解できない」で、映画を観ている最中ずーっと横で「ばっかじゃないの……理解できない」的なことをぶつくさつぶやいていた。
んも~っ!ほんと彼女とは感性が合わないッ!と思いつつ、わたしも、こういう懐疑的で慎重派の彼女とつきあっているからこそ、野道に迷い込んで野垂れ死に……とかしないですんでるんだなあ……と感謝した。←似たもの同士で付き合ってたら、ノリでロードトリップ行って死にかねない。いや、本気で!
さて、旅の間ずっと「アレックス」と名乗り続けた彼が最後に書き残した署名は、本名の「クリストファー」だった。極限まで行った彼にどのような心境の変化があったのか、それは想像するしかできない。しかし、きっとそこに何らかの「逆転」があったのではないか。
そのような「逆転」は、例えばこのようなものだ。わたしは一人が好きだし、一人でも幸せは感じられる。でも、Happiness is only real when sharedという言葉にも惹かれるものを感じる。
一人になることを恐れ、気の合わない人と強迫観念に一緒にいるわけじゃなく、一人でいる事由、一人でいる時に感じる幸せを十分に堪能した後にはじめて至る心境なのだと思う。
映画の方は、悪くなかったんだけど、なんとなく散漫な印象だったので、本を今度最後まで読みたい。