#あたシモ

虹の向こう側

私たちは「巨人の肩の上」に立っている

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「巨人の肩」という表現

ことわざには、国を超えて共通しているものがある。It’s no use crying over spilled milk (覆水盆に返らず)だとか、Kill two birds with one stone(一石二鳥)だとか。

もちろん、名言が翻訳されて広まったケースもあるのだろうけど、違う言語で似た意味を持つことわざを見つけると、「人間は国を超えて同じようなことを考えてきたのかな?」と感慨深いこともある。

そんななかで、英語ではよく使うけれど、日本語であまり広まっていない印象の表現もある。そのひとつが「巨人の肩の上に立つ(Standing on the shoulders of giants)」というフレーズだ。

このフレーズは、一応翻訳はされていて、日本語版のWikipediaにも項目があり、以下のように説明されている。

「巨人の肩の上にのる矮人」(きょじんのかたのうえにのるわいじん、ラテン語: nani gigantum umeris insidentes)という言葉は、西洋のメタファーであり、現代の解釈では、先人の積み重ねた発見に基づいて何かを発見することを指す。「巨人の肩の上に立つ」、「巨人の肩に座る」、「巨人の肩に登る」、「巨人の肩に乗る小人」、「巨人の肩に立つ侏儒」などの形でも使われる。

しかし、日本語の表現として「巨人の肩に座る」だとか「巨人の肩に登る」と言った場合、いったいどれだけの人がすぐに意味を理解してくれるのだろうか?

(もしも、わたしが思っている以上に日本でこの表現が広まっていて「皆それくらい知ってるよ!」「全然普通に伝わるw」ということでしたら、ごめんなさい)

ニュートンも巨人の肩の上に立っていた

この言葉は、哲学者のシャルトルのベルナルドゥスのものだとされている。

我々[現代人]は巨人[古代人]の肩の上に立つ小人のようなものであり、それゆえ我々は昔より多くのものを、より遠くのものを見ることができるのだとシャルトルのベルナルドゥスはよく言ったものだった。そしてこれは我々の視力の精確さや我々の身体の優秀さによるものでは全くなく、巨人の大きさによって上に運ばれ高められているからなのだ。

その後、万有引力の法則を発見したアイザック・ニュートンが書簡の中で使ったことによって有名になった。

私がかなたを見渡せたのだとしたら、それはひとえに巨人の肩の上に乗っていたからです。(If I have seen further it is by standing on ye sholders of Giants.)

数多くの業績を残したニュートンだが、その彼も、自分の数々の発見は、偉大な先人による先行研究があったからこそ可能だったことを認識していたのだ。

このような態度は、ニュートンに限らず多くの科学者に見られるもので、例えば、ノーベル物理学賞を受賞した江崎玲於奈博士も

「私のエサキダイオードや半導体人工超格子の仕事を考えても、ブロッホ、ゼーナー、ショックレーなどの巨人の肩の上でなしたのだと言えるでしょうし、また、私の肩の上でも新しい仕事が次々となされているのが現状です」と発言している*1

またスティーブン・ホーキング博士は、ズバリ『On The Shoulders Of Giants』という書籍を出している。

グーグル・スカラーのトップページにもこの言葉が引用されており、学問の世界における先行研究の重要さを示す言葉として、比較的よく使われているようだ。

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社会運動における「巨人」とは

しかし、わたしたちが「巨人の肩の上」に立っているのは、そのような自然科学の分野のみにおいてではない。

公民権運動や、LGBT権利擁護活動、そしてフェミニズム……。さまざまな社会運動の場面においても、わたしたちは、先人たちの積み上げてきた実績を享受し、そのうえで今生きることができている。

今アメリカで「黒人の命だって大切だ(Black Lives Matter)」活動をする人の多くは、公民権法を実現した後に生まれているだろう。でも、奴隷制の廃止、いわゆる『ジム・クロウ法』の廃止に向けた法廷内外でのあらゆる活動、バスで席を立たなかったローザ・パークスの犯行、マーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師のことを知らない人はいない。黒人歴史月間などには、「巨人の肩の上に立っている」という言葉と共に、過去の活動家の功績を掘り起こす記事が投稿されるし、この言い回しそのものを使わないとしても、過去の運動の延長線上に今があることを共有している活動家は多い。

万一、このような活動の指導者が、過去の成果を過小評価し、自分たちがはじめて何かを成し遂げたというような事実に反する発言をすれば、すぐさま彼/女の歴史認識は激しい批判を浴びるだろう。

LGBT活動についても同じことだ。連邦レベルで同性婚が可能になった今、アメリカのクィアたちは新たな目標に向かって活動を続けているが、彼らは、決してストーンウォールから続くムーブメントを忘れているわけではない。

ストーンウォールの歴史を「白く塗り替えようとしている」ような人たちもいたが……。素早く批判の嵐が巻き起こり、この映画の売上は散々だった。

連邦レベルでの、同性婚の前には、州レベルでの同性婚があり、その前には、ドメスティックパートナーがあり、その前には、無数の抗議活動があった。わたしたちの「今」は、いつでも過去に立ち上がり、活動をしてきた「巨人」(そして巨人ではなくても、無数の普通の人々)の努力と実績のうえにはじめて可能になっている。わたしたちが今見ているこの素晴らしい景色は、誰かの「肩の上」に立たせてもらって初めて可能になったのだ。

その先人の存在を忘れてはいけない。人種問題でもそうだ。ホノルル空港の名前が今度、アジア系としてはじめて議員になったダニエル・イノウエの名前にちなんで「イノウエ空港」になるというニュースはそのような努力の現れの一つと言えるだろう。

日本の社会運動では「巨人の肩の上」はそんなに使われない表現なのかもしれない。

でもその精神まで忘れてしまっては、いけない。

史上最大規模のパレードになる、と喧伝されている東京レインボーパレードの当日に思ったことでした。

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