たまにはセクシュアリティについて書こうかな。実は、最近は、セクシュアリティについてや、LGBTを巡るポリティクスだけに特化して何かを言うことにはあまり興味がないのだけど、カムアウトについて、感じていたことをちょっと書く。
と言っても、まぁ、以前ツイッターに書いたことの繰り返しなのだけど。
カムアウトってさ、単にセクシャリティを相手に言うって話じゃない。
— イチカワユウ (@yu_ichikawa) 2017年9月9日
それは自分で自分をどこまで受容しているか?ってことと、周囲に自己開示をどこまでできる環境にいるのか?って言う2つの要因が絡み合ってる。
多くの場合、本人の選択でカムアウトするしないとか、する必要性がないとかってゆー話にすりかえられちゃうけど、そもそも重要なのはこの2点。
— イチカワユウ (@yu_ichikawa) 2017年9月9日
その2点が満たされない状態で自由意志とかあり得ないし。逆に言うとその2点が満たされてればTPOによって言わないとか当然ある。
カムアウトの話してると「別にわざわざ言う必要ない」とか、「カムアウトを強制するな」論者が根強く出てきて、いろんな意味での抑圧を感じさせるのだけど、カムアウトって、究極的にはセクシュアリティを言う、言わないの話じゃないんですよね。
と言うのは、オープンリーゲイとして生きてても、TPOによっては彼女がいるとかそーゆー話をしないケースなんて普通にあるし、かと言ってそれをテコにして「言う必要がないならクローゼット」と言うのも欺瞞だと言うことを強く感じているため。言う必要がない、と、言えないって、全然違うんですよね。
わたしはカムアウトの本質は上で書いた通り、
①自分に嘘をつかず、やりたいように生きてるか?
②周囲にどの程度自己開示できる環境にいるか?
の二つだと思ってます。
①はもう、あたり前だと思うんだけど、意外に②も大事なんですよ。人と人が仲良くなる時に、自分から自分の情報を開示することってすごい重要だし、効果的なんです。とゆーかプライベートな情報をペラペラ開示しなくても「隠さなくてよい」と思えること自体が無意識に与えてるって言った方がいいのかな。
それができない環境って、自分では「何の問題ない」と思ってるつもりでも、実はジワジワと影響が出てると思う。
その影響は、あまりに微妙すぎて、自分がそこにいる間は感じないのだろうけど、その環境を離れた時に初めて、「あ、我慢してたんだ」「ずっと無意識に隠してたんだ」ってわかる。