わたしは懐疑的な人間だ。
悟ったようなことを発言しないし、悟ったような言葉も全て疑う。
否定するために疑うわけではない。 疑うために疑うのでもない。 信じるために、疑うのである。
わたしは、何でも信じてみたいと思っているが、何が何でも信じたいわけではなくて、「どうやらこれは本当らしい」と自分のなかで、本当に納得できる何かこそを信じたいのだ。
「それが本当に本物なのかどうか」
それを確かめるために、疑ってみるのである。
これは自然科学に分野においても、 人間関係においてもそうだ。
本当であってほしいから疑うのだ。
黄金色に輝くものを渡された時 その匂いをかいだり、叩いたり、かじったり、銀行に持って行ったり、鑑定士に見せたりして、それが本当に黄金であるか確かめるよね?
それと一緒ですよ。
黄金色に輝いているからってんで、 そう言われたからってんだ、 確かめもせずに「黄金だ!」っていうのは 単なるバカでしょう。
疑って「確かめる」行為をすっとばして 信じたいものだけを信じるというのは、 夢でもロマンでもなく 愚かさ、もしくは弱さの現れである。
もちろん、わたしたちは皆愚かで弱い生き物だ。 しかし、だからといって、 「何が真実か」見極める努力と知性を放棄したら いったい何が残るのだろうか?
愚かだからこそ、知性的であろうとする姿勢が重要だし、弱いからこそ、流されないように努力しなければいけないのだ。
疑いは、わたしたちに残された武器だ。
わたしたちの目の前に差し出されるメインストリームの情報が、 政府や、大企業の手によって コントロールされたものであることは事実だ。
しかし、そこでまた与えられたオルタナティブな情報を また吟味することなく盲信するならば、それは、結局同じこと。
こちらの家畜小屋から、 あちらの家畜小屋に移動しただけで、何かを成し遂げたかのように誇るのは馬鹿げている。
「真実を見つけた」という気持ちよさにひたる前に 正しく「疑う」ことを覚え、 人間の知り得る事柄の限界を知り それを謙虚さと共に受け入れたい。
答えがどんなに、退屈で、複雑で、救いがないものだとしても。
その退屈さや複雑さは、「全てに対するシンプルな答え」よりは、きっと誠実でリアルなものだ。