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アメリカで働くレズの徒然

原作作品の映像化の難しさ - 『セクシー田中さん』と『羣青』

セクシー田中さん(1) (フラワーコミックスα)

『セクシー田中さん』の原作者の芦原妃名子さんの訃報をSNSで知った。芦原さんのご冥福をお祈り申し上げます。

なぜこのような悲劇に終わってしまったのか、それはご本人しか知る由がないだろう。だが、ソーシャルメディアは早速理由探しに余念がない。芦原さんはXの投稿で「攻撃したかったわけじゃなくて。ごめんなさい。」と書いているが、詳しい経緯をブログに掲載していた(魚拓

それによると、

①ドラマ化は漫画に忠実に作成する ②ドラマオリジナル部分も原作者が「原作者があらすじからセリフまで」用意し、原作者が用意したものは原則変更しないで脚本家してくれる人を用意する ③場合によっては原作者が脚本を執筆する

・以上の条件を。小学館から日本テレビへ伝達の上で、ドラマ化を了承 ・上記条件にも関わらず漫画とかけ離れたプロット・脚本が提出され続けた ・そのため、芦原さんは自ら8話、9話の脚本を執筆するに至った

一方、ドラマの脚本を手掛けた相沢友子さんサイドからの経緯説明はない。Instagramでの投稿を見ると、ドラマの最終話に対してコメントが寄せられていることに対し、「自分が書いたのではない」と説明。急遽原作者が脚本を書くことになったことに対して、「困惑した」「残念ながら」という形で説明している。

「最後は脚本も書きたいという原作者たっての要望があり、過去に経験したことのない事態で困惑しましたが、残念ながら急きょ協力という形で携わることとなりました」

また別の投稿では「苦い経験」とも書いており、相沢友子さんの側からしても、何かしらのごたごたがあったことが察せられるが、彼女の側が、芦原妃名子さんが当初提示していた条件を認識していたかどうかについては言及がない。

日テレや小学館サイドの言い分も気になるが、どちらかといえば、誰か個人がどうとか、インスタの投稿やハッシュタグががどうこうというよりも、ドラマ作りというシステムの問題や、ドラマ制作に対する原作者の関わり方の契約など、そういう問題だと思っている。芦原妃名子さんの急死がショックだったのは理解できる。しかし、彼女の死を悼み、心を寄せるあまり、脚本家相沢友子さんを責めるような物言いをしている発言が多いのは気になった。SNSで心無い言葉を投げつけられることは、かなりメンタルにくる。もともとご本人もショックを受けているところだろうに、事情をよく知らない第三者たちが憶測で追い打ちをかけるような言動は残酷だし、危険だ。

個人を原作があるドラマ制作の方法や、仕事におけるコミュニケーションのありかたなど、テレビや出版社関係の人が真摯に再考してほしいと思う。

さて、ここからは、一般的な原作があるドラマや映画化の難しさについて。最近はハリウッドでも、製作費がかさみ「ホームラン狙い」の作品が多いので、ある程度おヒットが見込める「原作もの」がめちゃくちゃ多い。小説・漫画・ミュージカル・ゲームetc.で、原作が映像化された場合、びっくりするくらい原作とは違うことが多い。わたしは原作者でもなければ映像関係者でもなく、また評論家でもないので、特に思い入れが多い作品以外は「面白い」「好き」とかそんなカルいノリで「違い」を楽しんで消費してしまっていた。

なかには「これは違いすぎるだろう」とがっかりしたり、いちファンとして怒りを覚えるようなものもある。

例えばNetflix映画『彼女』だ。中村珍さんの漫画『羣青』が水原希子主演で映像化される!と聞いてからずっと楽しみにしていたのに、あまりにもメイルゲイズに満ち、女性同士の愛や裸体を性的なものとして他者化する映像に、あまりにしんどすぎて最後まで見通すことができなかった。しかし、その後原作者中村珍さんのコメントを改めて読んで、切なさと同時に、何かすっと心が落ち着いた。

ルーツは「羣青」という漫画ですが「原作の再現」だけが映像化の最適解ではないので、題も人の命名も、脚本も、「彼女」を作る皆様にお任せしました。原作に心を寄せた人が別解釈に抵抗を感じたり、逆に、原作を苦手な人が映画で愉しめたり、それぞれあると思います。原作の人物に寄り添って頂けることも幸いですし、映画化にあたっては同じルーツの物語が別の姿で愛されるかもしれない機会を得ることに最良の意義を感じています。中村珍(原作者)

中村珍さんがこのコメントをいつ書いたのかはわからない。作品を観た後なのか、観る前なのか。わたしは映画を観る前に告知で見ていたはずだが、その時は読み飛ばしていて、ワクワクしかなかった。その後、映画を観ていたたまれない思いになって、ネットをさまよった。正直誰にも聞かれない場所で、「この映画、どう思いましたか?」って聞いてみたい気持ちもあった。でもこのコメントを改めて読んで、「珍さんがこうおっしゃっているのなら、これはありなのかな」と少し気持ちが落ち着いた。それは「諦め」かもしれないし、『彼女』という映画自体が嫌いなことは1ミクロンたりとも変化しないけれども。

繰り返すが、わたしは原作者でも映像作品を作る側でもないし、「ドラマ制作はこうあるべき」とか「原作者はこういうスタンスでいるべき」という話をしているのではない。脚色作品とは様々な付き合い方がある。それは何か一つが正しいわけではないだろう。

ただ、様々な可能性があるなかで、条件が提示されたり、それが受諾されたのであれば、それを明確にし、誠実に守ることは大切だよね。原作者とか脚本家とかの話ではなく「人」として。

そこがまっとうされれば、どんな作品ができても、それなりの納得感はあるだろう。だが、それが裏切られた人は本気で悲しみを覚える。