#あたシモ

アメリカで働くレズの徒然

政治的スイッチを切れば芸術的名作として楽しめる『TAR/ター』 - アート、woke、クィア

映画『TÁR』 ポスター

『キャロル』のケイト・ブランシェットがまたまたレズビアンを演じる!しかも『燃ゆる女の肖像』のノエミ・メルランと共演ということで、期待していた『TAR/ター』 (原題:TÁR)をアメリカでの公開翌日に観てきた。

劇場はほぼ満員で、特にゲイコミュニティっぽい観客というよりも、ケイト・ブランシェットのファンが多いのかなという印象。その後に「映画の感想のアンケートに答えると5ドルもらえる」というチラシを配ってきたので受け取ったが、書ききれないのであふれる思いをブログにぶつけるよっ!

はじめに断っておくとわたしはこの映画を冷静に評価できる立場にはない。

まず『キャロル』が大好きで、その主演をしたケイト・ブランシェットが好きだし、レズビアン表象に餓えているし、また色んなものをすぐ政治的に解釈してしまう、という癖もある。またクラシック音楽やオーケストラの知識もうすく、この映画で示されている膨大な情報量のすべてを100%感じ取る知識と感受性に欠けている。以下のレビューはそんなわたしの偏りと限界を得た上での率直な感想である、ということをご了承いただきたい。

『TAR/ター』のあらすじ

天才的作曲家であり指揮者のリディア・ター(ケイト・ブランシェット)は、ニューヨーカー・フェスティバルでアダム・ゴプニックにインタビューを受けている。エミー賞、グラミー賞、アカデミー賞、トニー賞のすべてを受賞し、ベルリン・フィルの常任指揮者となった彼女は、彼女であるシャロンと子供とともにベルリンに住み、マーラー 交響曲 5番の公開録音に向けて練習していた。人気も名声も手に入れながら、その才能ゆえか日常の些細な音が気になってしまう繊細さも持つリディアはアシスタントのフランチェスカ(ノエミ・メルラン)にEメールの送受信を任せているが、そこにはクリスタという女性からのメールが何通も届いている。オーケストラの新しい女性チェリストに目をかけてチャンスを与えようとする傍らで、教職、オーケストラ、そして自著の出版という複数の仕事に取り組むリディアにスキャンダルが発生する。

『TAR/ター』の感想

観た後、とても複雑な感情に襲われてどっと疲れた。

その高い芸術性と圧倒的な演技力は明らかであり、ストーリーも興味深いのですが、この作品を社会的な視点で見た場合、いくつかの欠点があり、それはわたし個人にとっては、受け入れがたいものだったからだ。

「映画にはB級だけど、何か好き」という作品があれば「よくできるけれど好きじゃない作品」というのもある。 わたしにとって『TÁR』は後者になりそう。

以下その理由を書いていく。

『TAR/ター』良かった点

ケイト・ブランシェットが素晴らしい。エレガントで大胆不敵。またオープンなレズビアン役として、体にあったスーツと抑えたメイクで「典型的なフェムファッション」とは異なるジェンダーレスなセクシーさを体現している。

また、クラシック音楽についてのウンチクを述べるインタビューシーンや、学校で教えるシーン、オーケストラを指導するシーンなど、アーティストの感性や思考の流れにピッタリ寄り添うような描写がされているので、その世界観にどっぷり浸れる。長々とした講釈シーンはややもすれば衒学的なきらいもあるが、クラシック音楽やアート論が好きな人にはたまらないだろう。あとオーディションのシーンとかも面白かった!

また、芸術的なだけではなくてストーリーも面白い。成功の頂点にいるようかに見えるリディアが抱える「闇」や、危うさの繊細な表現、ドラマティックになりすぎない程度にサスペンスを保つストーリー展開なども、よくできていた。2時間38分と割と長めの映画だが、飽きることはなかった。

イマイチだった点1 加害者によりそい、wokeを揶揄

しかし、個人的にこの映画を「素晴らしい!」と手放しで称賛することができないのには理由がいくつかある。

まずは、小さいことだが、冒頭がいきなりクレジットから始まる点。なんかそこからして「アーティスティック映画でございます」というか、監督の自我の強さというか、独りよがりっぽさが出ている。

続いて、この映画はMeTooの加害者を魅力的に描いてしまっている点。。映画は、カリスマ的天才だが性格に難ありの指揮者リディア・ターがその権力を濫用し、告発をうけ、徐々に転落していくさまが描かれている。リディアは若く魅力的で気に入った才能ある若者を食事に誘い、自分の権限でソロのチャンスを与え、「グルーミング」する。出張にも同行させ、あわよくば深い仲になろうとしているのかもしれない。そして、おそらく過去にも同様のことを行っていることが示唆され、そのスキャンダルが表に出た時、彼女はその華麗な経歴にも関わらず「キャンセル」される。

確かに、映画は決してリディアに同情的な描き方はしていない。彼女のズルさ、下心、ナルシシズム、道徳的に問題がある点や、自分の権力を利用して人を操作しようとする点などを存分に描く。しかし画面は圧倒的にリディアに寄り添っており、そこでは彼女のあふれる魅力が惜しみなく描かれる。「ズルい」行動も丁寧に描かれるので、その心の動きに人間味を感じてしまい、彼女を糾弾する側や「キャンセル」を呼びかける側が粗暴に見えてしまう。

逆に彼女の被害者であり、ミステリの一部にもなっている「クリスタ」がどんな女性だったか?彼女とリディアの間にはどんな関係があったか?映画ではそれは一切描かれず、視聴者は、報道やリディアのメールボックスに残る断片的なやり取りから推測することしかできない。被害者の女性は圧倒的に「他者」であり、被害者側のストーリーが語られることはない。

今人気を集めながらも批判を浴びているネットフリックスのシリーズ『ダーマー』と似た構図なのだ。加害者にひたすらよりそい、丁寧にセクシーに描き、被害者はただ影に追いやられる。このような描き方は、一見加害者が最終的に罰を受ける物語だとしても、MeTooが問いかける問題から本質的に逃れられていないのではないか。

また、リディアはキャンセルされる前から、「woke(意識高い系)」な若者のノリに対して距離を取り冷笑的な態度をとっている。リディアが教壇に立つジュリアードでの指揮の授業にて、とある生徒が「有色人種の人間として、シスヘテロの白人男性であり、何人も子供をもうけたバッハの音楽に共感することは難しい」というような意味の発言をする。それに対してリディアは反論し、苛立った学生は「ビッチ」と捨て台詞を吐いて教室を去る。この授業の様子が後ほどソーシャルメディアに流出することが、リディアの「キャンセル」のきっかけのひとつとなるが、このシーンは白人・ヘテロセクシュアル・男性など「マジョリティ」とされ、自らの持つ特権の自覚を迫られることにうんざりしている人たちには喝采をもって迎えられそうな物言い。おそらくはこのセリフを書いたトッド・フィールド監督の実感も入っているのかもしれない。しかし、そんな多数派が好きそうなセリフをレズビアン女性というマイノリティ設定であるリディアに言わせているところがズルい。

『TAR/ター』イマイチだった点2 アジアの描き方

作品ラストに登場する「アジア」の描き方も不愉快だった。キャンセルされたリディアは、アジアに行き小さなオーケストラで職を得ます。雑多な異国の街頭で、ローカルに紛れて歩き、時にワニの出る川を下って滝ツボまで泳ぎに行くリディアの生活が短く挟まれるが、これがまたステロティピカル。

ラストシーンでは、リディアがありついた仕事が純粋なクラシックオーケストラの仕事ではなく、おそらくテーマパークか何かのファンたちのための催しであることが明かされる。元ネタが何かわからないコスチュームに身を包む観客が「オチ」として描かれる点で、アジアという土地柄やコスプレを含むポップカルチャーが、リディアの「都落ち」の象徴として効果的に働いてしまっていることを否応なしに感じさせられる。

イマイチだった点3 クィア女性の表象

上のように、内容だけでもイマイチだが、個人的にこの映画で一番納得いかなかった極めつけが「リディアがレズビアン女性」という設定で行われた点である。

もちろん、MeTooをテーマにした映画は既にいくつもあるしそれでは新しさがない。加害者を白人シスヘテ男性による犯罪ではなく、魅力的なレズビアン女性という設定にしたことで、エッジが生まれたという側面はあるのかもしれない。また、ジェンダーに関係なく、権力は腐敗しやすいというのも事実だろう。

しかし、クラシック界に限らず、まだまだ男性中心的なこの社会で、現実に起きている権力の濫用はほとんどが男性によるものであるなか、なぜ現実にはほぼ実在し得ないようなレアな設定のレズビアンが、よりによってこのような人物像として描かれなければならないのだろうか?正直、一昔前のステロティピカルなレズビアンの描かれ方に後戻りしたような感じすらある。

トッド・フィールド監督はこの作品をケイト・ブランシェットのために書いたという。そして、『燃ゆる女の肖像』からノエミ・メルランもキャストされている。そこに監督のレズビアンフェティッシュが透けて感じられる……というのは穿ち過ぎかもしれないが、リアルなレズビアン像というよりも、誰かが考えて最強のキャラのひとつの属性として「レズビアン」というのが付与されただけなんだろうなと思えた。

レズビアンは、確かに性愛の対象が女性に向くが、だからといってヘテロ男性と同じような行動を取るわけではない。「ヘテロ男性の行動から想像したのかな」というレズビアン像にはリアリティがない。正直言って、リディアの私生活の描写にはレズビアンカップルのリアリティもケミストリーもなかった。「Uホールレズビアン」という業界用語を使ってみたり、子供を育てる女性カップルを描くことで「レズビアンのことをよくわかってる」「進歩的」な描き方をしたつもりかもしれませんが、天才的だけれど神経質で自分中心的なリディア像は、ある意味、結局はレズビアンを殺人鬼として描いたり、情緒不安定なモンスターと描くのと大差ない。結局「ぼくのかんがえたさいきょうのサイコモンスター」なのだ。

ケイト・ブランシェットは「キャラクターの性別やセクシュアリティは重要ではない」と発言しており、それは彼女にとっての真実なのだろう。ブランシェットは、きっと、この映画をMetooに与える影響やレズビアンの表象としてフェアか?などという視点で解釈されたくもないだろう。キャラクターが表象するコミュニティや、その描写が持ってしまう政治的効果は、ブランシェットにとって重要なものではなく、役者として優れた演技をすること、優れた作品に出演することのほうが優先順位が高いというある意味当然のことを改めて痛感した。

そういう目線で見れば、この作品は高い芸術性と素晴らしい演技を兼ね備えて成功している。メジャーな映画評論は絶賛しているし、ロッテントマトでも高評価。おそらくこれからの賞シーズンで多くの栄誉を勝ち取るはずだ。

そのことを認めながらも、わたしにとってこの映画は「大好きな作品」にはなりそうにない。

『TAR/ター』評価

  • ケイト様すごい度 ★★★★★
  • 芸術点 ★★★★☆
  • もやもやもや度 ★★★★☆

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